こんにちは、レイです
今日も読んでくださりありがとうございます。
私(がん患者の家族)の書いた日記と父(患者本人)の書いた日記を元に、患者とその家族がどのように感じ、何を思い、どう行動したかの記録を綴っています。
何か皆さんの参考になれば嬉しいです
レイの日記
希望と恐怖心から偏る心
当初、手術をすることに関して私は非常に否定的でした。
というのも、がんを切り取るという考え方自体が、非常に西洋的な、全体を見ない考え方だと思えて仕方がなかったからでした。
なんとかして父に手術をしないで(自分の臓器を持ったまま)乗り切ってほしい、と思う気持ちをいつまでも捨てることができませんでした。
アーユルヴェーダで別人のようになった父を見て、私は、手術をしなくてもいけるのではないか、もうがんは治癒してしまったのではないかと信じたい気持ちさえありました。
多くのがん患者さんに関する本を読んでいても、がんで生還した人には、末期がんで手術を断られた人に多くいるようにも思えました。
そして多くの「実験的な」手術や、抗がん剤治療などの話。
抗がん剤や放射線治療の副作用の話。
手術後のQOL(クオリティオブライフ)の低下についての話。
多くの話を読めば読むほど、「三大治療(手術、放射線、抗がん剤)」についての疑問と不安が心をよぎるのです。
当時の私はヨガをライフワークとする生活をしていて、仏教などもすこし学んでいましたから、がんというのは全体の病気であって、「部分」の病気ではないと感じていました。
その悪い「部分」だけを切り取ったり、がんを「殺し」たりする治療にはどうしても納得が得られなかったのです。
この頃、家族での話し合いは、今後の治療方針の選択、という一点に絞られていくようになりました。
三大治療に対する私の恐怖心や不安感をなかなかぬぐうことができず、涙ながらに訴えるようになりました。
しかし私の考えもまた、このとき偏っていたと、後で気がつくことになります。
私には、がんにかかった患者さん本人の気持ちというものを想像する想像力も欠如していました。
母親、妹、父、そして私の4人の意見は、それぞれの死生観、それぞれの観念に基づいたものでした。
ですから、全く同一ということもなければ、ズレが生じて当たり前といえば当たり前でした。
そして個々それぞれが真剣で、またどうしても感情というものを伴ってしまっているというのもしかりでした。
そのまとまりそうでまとまらないものをまとめていく作業。
そして止まらない時間。
突きつけられる現実。
私たち「仲の良い」家族の、激しい話し合いや考察は、続いていくことになりました。
正解のない話し合いだからこそ、多角的な情報と寄り添う心が必要だった
がんに関する本を読めば読むほど、正解がわからなくなっていきます。
また、周りにいる人の傾向によっても、いただくアドバイスが変わってきます。そして良かれと思ってしてくださるアドバイスには、実に多くのバイアスがかかっています。
私は自然療法に偏りがちな周りの状況と、手にした本の影響、そして「奇跡的な」がんサバイバーの方の体験などを読み、自分の中で「奇跡」を求めている自分に気がつきました。
一番大切なのは、病気になった本人の気持ち、ということを忘れていたのです。
ぜひ、様々な見地の本や情報に触れてください。
そして何より、患者の方ご本人の心に寄り添ってあげていただきたいと、今振り返って思います。
その中で自分の考えは、臆することなく伝えてゆく、ということが必要だと、反省も込めて感じています。
父からのメッセージ
この時期、家族の治療方針についての意見交換の場は、総じて重たく、感情がぶつかり合う場面も多くありました。
家族は全員、私のことを心配して手術(胃の全摘)には否定的でした。
私自身も勉強不足なこともあり、三大治療に対する考え方が定まっていませんでしたので、いろいろ迷いました。
そこで、これではいけないと思い、ホーム・ドクターの意見や友人の体験談を聞き、関係書籍を読み漁りして、基本的な考え方をまとめるよう努めました。
つづく
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